竹墨画廊

竹ペンと墨汁のみで描く自作の絵を公開していきます!

竹と墨で描く絵画世界 井之頭弁天堂(弁財天Part4) 狛犬吽形

井の頭弁天堂(弁財天Part4)狛犬 吽形

建立年時 1771年(江戸中期 明和8年)
容姿 顔立ちは獰猛でもなにか愛嬌がある。
   阿形、吽形の狛犬奉納者 高井戸の名主 内藤庄右衛門

所在地 東京都三鷹市井の頭4

余談(1) 江戸中期の安定した世相、元禄文化に町人商人が担い
  手となって栄えた活気ある時代でユーモア、お茶目で財力を
  持った奉納者がいた。
  (2)井之頭と云う地名 江戸は100万人を超える世界有数の
  大都市でした。街に送られる「神田上水」の重要な水源でした。
  3代将軍家光がこのあたりに鷹狩に来た時この池の水は江戸の
  飲料水の源・上水の頭であることから「井の頭」と命名し池の
  ほとりのこぶしの木に井の頭と刻んだと伝えられています。 

竹と墨で描く絵画世界 井之頭弁天堂(弁財天Part3)狛犬 阿形

井の頭弁天堂(弁財天Part3)狛犬 阿形
建立年時 1771年(江戸中期 明和8年)
容姿 ファニーフェイス 彫が少なくシンプル、丸みのある
   顔立ち 舌を出して笑っている。 
   奇妙であるが………。
   石造りで彫師は不明。
場所 井之頭恩賜公園の井之頭池の西端、水辺の近く。
   井之頭池や周辺の公園一帯は武蔵野市と三鷹市に
   またがっていますが、弁財天のお堂がある敷地は
   三鷹市の管轄

所在地 東京都三鷹市井の頭4

余談 一般に弁財天は 七福神の唯一の女性の神様
   井之頭弁財天堂の
   御本尊は宇賀八臂(うがはっぴ)弁財天というお姿
   8本の腕8本の腕にそれぞれ刀、弓、矢、矛(ほこ)
   斧,長刀、鉄輪,索(縄)備え
   頭には宇賀神をのせている。
   12年に一度巳の年しか開帳されない秘仏 

竹と墨で描く絵画世界 井之頭弁天堂(弁財天)Part2

 

井の頭弁天堂(弁財天)Part2
扁額の書は第55代内閣総理大臣 石橋湛山の謹書です。

所在地 東京都三鷹市井の頭4-26-1

余談 石橋湛山の格言
   政治家の目的
   政治家の私利心が第一に追求すべきものは 
   財産や私生活の楽しみではない。国民の間に
   湧き上がる信頼であり名声である。
   社会の発展
   急激にはあらず、しかも絶えざる停滞せざる
   新陳代謝があって初めて社会は健全な発達をする。

竹と墨で描く絵画世界 井の頭弁天堂(弁財天)

井の頭弁天堂(弁財天)

東京都三鷹市の井の頭恩賜公園内にある天台宗の寺院。水の神や芸能、財宝の神として

古くから信仰されており吉祥寺エリアを代表するパワースポット。 

創建は平安時代前期の天慶年間東京源氏の祖である源経基が伝教大師(最澄)作と伝わる

弁財天女像を安置したのが始まりとされている。

所在地 東京都三鷹市井の頭4-26-1

余談 弁財天は七福神の唯一の女性の神様

 

 

 

 

竹と墨で描く絵画世界 上野東照宮part4

上野東照宮の関わり
(1)1616年徳川家康危篤状態にあった枕元に天海僧正と藤堂高虎
(現在NHK大河ドラマ豊臣兄弟出演中)が呼ばれた。
家康、秀忠、家光江戸幕府の基礎を固めた初代~3代将軍
「3人が一つの処に末長く魂鎮まるところを作ってほしい」と
遺言を受けた。高虎はこれに応えて自らの上野の屋敷地を献上
して東照宮の建立に尽力した。
(2)左甚五郎による龍が柱に嵌め込まれている。内側から見ても
外側から見ても右の龍の頭が下を向いて左の龍の頭が上を向いている。
「偉大な人ほど頭を垂れる」という諺に由来して下を向いているものが
昇り龍と呼ばれている。


所在地 東京都台東区上野公園9-88

竹と墨で描く絵画世界 上野東照宮Part3

灯篭の歴史変遷
伝来 飛鳥、奈良時代
   6世紀頃仏教伝来と共に寺院で献灯として使用
   現在最古の石灯篭は奈良県の當林寺(たいまでら)にある
   平安時代 神仏習合
   鎌倉時代 庭園の導入
   安土桃山 江戸時代
   普及、日本庭園の景物、書院式庭園、装飾
   室内用の行灯(あんどん)や提灯へ波及

余談 鹿児島県特攻のまち・知覧の石灯篭
   特攻観音堂に至るおよそ2000mの平和祈念道路
   両端に並んでいる。見事で驚愕する。  

竹と墨で描く絵画世界 上野東照宮 part2

 

(過去写真参考)

所在地  東京都台東区上野公園9-88

上野東照宮part2

東照公御遺訓の中の冒頭の一句で
人の一生は重荷を負いて遠き道を行くが如し
急ぐべからず 徳川家康が遺したとされる名言(遺訓)

急いでは失敗する
忍耐と着実な努力の大切さを説いた言葉

余談
実は家康本人が残したものではなく、江戸時代後期の
幕臣 池田松之助が創作したものが後に「家康のもの」と
して定着したものとされているようです。
又、諸説あるようです。